昔の仕事

2023年8月18日

私が最初に東京での仕事をしたときのことを書きます。急ぎ書いたので、また修正するかもしれないですが、とりあえず投稿します。

私が最初の東京での仕事は電話のサービス関連のプログラム関連の仕事でした。具体的に言えば、キャッチホンや転送電話の機能を追加するような仕事です。そのようなサービスを行うためには電話機にも機能が必要ですが電話の通話処理を行う交換機という機械にプログラムを追加する必要があるのですが、その仕事をしていました。

仕事における勤務形態は少しづつかわっていったですしうろおぼえの部分もありますがこれから書いていくことに、大きな違いはないと思います。

当時、会社の定時は8:30~17:10でしたが、その仕事はとても忙しく水曜日以外は毎日、基本4時間残業をしていました。4時間残業の場合、間に休憩時間の設定が必要なので4時間残業が終わるのは21時40分でした。

東京は住宅事情が厳しいので、当時の私の給料では自分でマンションを借りたりできません。なので独身寮に入るのですが、私が働いていた部門は独自で独身寮をもっておらず他の部門の独身寮を借りていたためあまりよい場所はあたえてもらえず通勤は片道1時間30分程度かかっており、残業した後は、遅くなり電車の便が悪くなるので1時間30分以上かかっていました。そうすると独身寮に帰るのは、23時をまわることになり風呂に入ったりしていると、0時をまわります。朝は8時30分からですから、7時前には独身寮をでないといけなくて、そうすると寝る時間を考えると、平日は何もできませんでした。

また、通勤も満員電車ですので、通勤時間もとても、しんどかったです。

また、交換機のプログラムを作るには検証用の交換機が必要なのですがそれは、とても高価でしたので台数が少なかったです。そうすると昼間だけでなく夜も、交換機を使い検証をする必要があります。

なので交換機は以下の割り振りでした。
 ・ 9:00~13:00
 ・13:00~17:00
 ・17:00~21:00
 ・21:00~ 3:00
 ・ 3:00~ 9:00

なので、夜間の作業が必要になります。一般的な夜間作業の仕事は夕方くらいに出社して、翌朝退社するようになっていると思うのですが、当時の私の仕事場はとても忙しかったので夜間作業当日に作業の準備をする状態で、夜間作業の状況を翌朝報告する必要がありました。なので、夜間作業をする場合も夜間作業の当日と翌日も仕事をしていました。

私は担当した仕事の関係で、21:00~9:00までの連続した交換機の検証作業をすることが多かったです。

その場合、例えば月曜日の夜に21:00~9:00まで夜間作業があった場合、月曜の朝8:30に出社して、そのまま会社に21:00までいて、21:00~9:00まで夜間作業をしてそのまま火曜日の17:10まで仕事をしていました。

なので、30時間以上会社にいることになりますが、翌日の水曜日が空けで休みになるわけでもなく、月曜から火曜にかけてそのような勤務をしてまた、同じ週の水曜から木曜にかけて同じ勤務ということもありました。

もちろん、労働基準法から考えてその時間のすべてを仕事扱いにするわけにはいかないので、21:00~9:00までの夜間作業であれば17:10~20:00まで休憩時間扱いにはなっていました。しかし、通勤が往復3時間かかるのですから、独身寮に帰っている暇などないです。なので、休憩時間もずっと自主的に仕事をしていました。また、夜間作業は、何時間かに何分か休憩時間が設定されてましたが私の担当は、交換機を連続して使わないといけない作業でしたので休憩時間などほとんどなく、夜間の休憩時間も自主的に仕事をしていました。

また、土曜から日曜にかけての夜間作業もありました一般的に土日に仕事をすれば、代休になると思いますが、土曜日~日曜にかけて夜間作業をしてもすべて残業扱いになり代休はなかったです。そうすると2週間休みなしのような勤務になり、それも、とてもしんどかったです。

このように、とてもしんどい仕事でしたが、それでも仕事が追い付かず、会社に寝泊まりすることもありましたが、自主的にに会社に泊まるわけですので、ベットなどなく、床に寝るか、椅子をならべて寝ていました。そのような状態は体に悪く、私が20代のころに第5腰椎分離症となったのは、きちんとベットに寝れなかったことも原因だったとは思います。それは、自主的に会社にとまったのが原因なのでしかたないです。

このように、自主的に仕事をしていたことを正式な仕事時間とした場合、労働基準法に反するような、たいへんな仕事でしたが当時のメンバは、誰も文句を言わず、皆、自主的な仕事を含めて一生懸命仕事をしていました。土日に自主的に出社する方も多かったように思います。

そのような、たいへんな仕事を誰も、文句を言わなかったです。それは、電話交換機のプログラムを作成する仕事ですからミスがあった場合、例えば、119への通話ができなくなる可能性もあります。そうすると人命にかかわる問題になります。なので、ミスのないように皆必死で仕事をしていたのです。

なので、口に出して言ってる方もいましたし、口には出さない方も皆「人命をかかわるような大事な仕事なので仕事にほこりをもってやっている」と思ってたと思います。私もそのように思って、たいへんでもがんばって仕事をしていました。

上記したような勤務形態は、その当時、問題のない交換機のプログラムを作成するため、どうしてもそのようにせざるを得なかったのですが、今は、そのような勤務形態は残っておらず、夜勤であれば、夕方から出社して翌朝退社するようになっていると思います。私の元の会社名を想定され、現在もそのように厳しい、勤務形態が残っていると思われて入社する人が減っては困るので、そのように書いておきます。

20代のころの仕事はこのように特にたいへんでしたが、それ以外の仕事についても、私は、ほこりをもってせいいっぱい仕事をしてきたつもりです。また、サルサや社交ダンスをはじめとする仕事以外のことについても、せいいっぱいやっており何ら恥じることはないです。

私は、現在、病状悪化のため主治医の先生に仕事を止められている状況です。世の中には、仕事をしていない人に対して偏見をもち無理に仕事をさそうとする人もいるようにも思います。

しかし、私が病状が悪くなったのはしかたないことであり、私は主治医の先生のアドバイスどおり600日以上入院しており、主治医の先生のすすめる農作業やダンスを無理のない程度にしており、そのような状況で主治医の先生に止められているので仕事ができない状況ですから、何ら恥じることはないです。また、誰から聞かれても今までやってきたことについて何ら恥じることなく話すことができます。なので、仕事をできない旨も含めて、ホームページに書かせていただきました。

私が思うに残念ながら、私のまわりには、「そのようなことをしていることを人に言えるの」と思う人もいますし、「そのようなことをしていることを人に言えるの」と思うような人に加担しているのではと思う人もいます。「そのようなことをしていることを人に言えるの」と思うような人に加担しているのではと思う人が少なくなっていけばと思います。

Posted by 愛媛のダンサー